やり過ごしの日々日記

〜想いのつぶやきあれこれ〜

NHKドラマ「こもりびと」を観て

最後の方のシーンの歩道橋での父親と息子のシーンは、目頭が熱くなったな。

一つ、概して感じたのは、父親と息子の価値観が異なることだ(または、価値観の押し付けや共同体世代と個人世代)。

そして、息子にとって、働くということは、金を稼ぐ以上に自己承認や労り合いを求めているということ。

これは、私自身少ない勤務経験や情報で見聞し、市場経済優位の社会の今を感じている。皆、何か焦っているように感じるのだ。

 

私の父親は、団塊世代で、兄妹も多く、末っ子で、愛情を向けられなかったようだ。昔、相続のお金の件で、喧嘩し、実家とは絶縁している。

そして、息子(私)が大学に行くため、一心不乱に働いてきた。

私は、父親とどこかに行った、何か労わるような言葉をかけられた記憶がない。少年の頃、サッカーの試合を観に来ても、陰の方で観ていた。食卓にも、観光バスの運転で宿泊のため、家にいないことも多かったように思う。

私も数年前までは、父親に対する怒りはあった。デリカシーのなさ、人を小馬鹿にした態度、おためごかしに。

私にとって、父親は透明な存在だ。一般的に父親という立場は、子の壁になるべき存在だという。壁となって、子の自己の欲望や輪郭、社会を感じさせる役割があるのだ。そして、子は「自己」というものを形作っていくと思う。

その意味で、ひきこもりの人たちは、両親から適切な立場を与えられず、自己が欲望を持たない空虚な存在になっているかもしれない。

 

私のこれまでの状態も両親からの影響は無論あるだろう。本当のところはよくわからないが、父親が死んでくれないかな、と思ったりもするのだ。別に暴力や心無い言葉を投げられたこともそれほどないのだが、不快な存在なのだ。