やり過ごしの日々日記

〜想いのつぶやきあれこれ〜

私の見た風景

卒業式だった。

小規模校のため濃密な演出だった。

ステージで、校長から証書を受け取る前に、夢を伝える(酷だな)。

体育館で、5、6年生が端の反対越しに向かい合い、協同合唱のハーモニーは、目が潤んだ。

また、最後に生徒が退場する際に、保護者が離席し、抱擁し合うシーンは、また目がうるっときた。

最後の最後で、廊下で、生徒と保護者の方を、我々職員が送り届けるのだが、やはり小学校の先生は、明るく、曲がなく、情感豊かだ。泣き、抱擁したり、ハイタッチしたりと、送っていた。

初インフルエンザ

10日前くらいに風邪を引き、回復傾向だったのだが(風邪後の咳喘息も)、咳が出始めた次の日、勤務先の検診でバリウムを飲んだのだが、そこから身体に無理がたたったのか、体調を崩し早退し、内科へ向かった。

 

運悪く、10日前に行った内科は休診で、かかりつけの内科は、いまや人気で早朝から外来の風邪患者の受付は終了)。

向かった内科は、過去に行っていたところだが、医者が偉そうで、漢方推奨のため、止めていた。そこでは、検温して、37度8分あったにも関わらず、私の伝えた通り咳喘息の疑いから、背中に聴診器を当てるのみだった。またお薬手帳を渡していたため、「なぜ、上記の2つの内科ではなく、うちに来たの?」と、最もな疑問だが、不審な言い方も含め不快に感じた。説明をし、風邪薬を処方され、帰路についた。

 

その後、昼食をとってから具合が悪くなり、寝ようにも頭痛と嘔吐で寝れず、夕方頃、夜間受け入れ病院に電話するも、発熱患者は受け入れできず、夜に家族に乗せられ急患センターへ向かった。

そこで、インフルエンザと診断され、ひと段落。

が、翌日の午後になるまでは、嘔吐も止まらなかったし、寝れないし、至極辛かったですね。

 

職場柄、インフルやら流行っていたので、早く予防接種を受けるべきでした。自分はならないと思っておりました。

ただ、新しく買い替えていた高反発枕が、早くもへたり、後頭部が痛く、睡眠が不安定で、そのため身体も痛くなっていたので、風邪の悪化の時期とも重なるので、睡眠の重要さを痛感します。

 

※県内今季インフルエンザ最多とのことでした。流行ってるんだな。

季節は移ろい、自己も揺らぐ

朝晩肌寒し。季節は廻る。

 

最近は、これまでの体験を元に来年度も仕事を続けるのかと考える。一つ言えることは、相方の正職員の方の存在が大きくて、果たして、相方が異動になり、一人になった時にできるだろうか、ということだ。いや、仕事はできるだろう。ただ、教育界や今も自分は職場で浮いているように感じてしまうのだが(自意識過剰)、続けていける職場なのか、よくよく考えこんでしまう。

 

それくらい、職場は一般社会とは異なる雰囲気なのだとは思う。妙な人や難しい人がいなくて、働きやすいのだが、緊張感や忖度はやや強めだけど、ずっと職員室にいるわけでないし。ましてや、先生方と私の立場は違く、比べるのもおかしい。自分の仕事に専念するべきだ。

 

私は用務の補助的な立場なので、あまりコミュニケーションする機会もないため、周囲にどう見られているか、馴染んでいないようにも感じてしまうのだが、恐らく、要所で声をかけられることもあるので、認められているのだろう、とは思い直している。

 

私としては、もっと寛容に大きく構えて、その場にいたいのだが、自己肯定感が低いからか、余計なことを想起してしまう。

 

仕事の中に留まり、甘んじ、孤独に耐えるべきなのだ。その中に自分の居場所があるはずだ。

 

そして、振る舞ってきた過程が「自己」なのだ。ということは、振る舞う連続性の中にのみ自己があるはず。

真夏の疲れ、

友人が他県に引っ越すとのことで、寂しくなる。

 

残暑も終わりが見えてきて、長い夏が終わる。

 

実家に飽き、嫌気が差してるが甘んじることしかできない。

 

自立がしたい。

 

真夏の疲れもあり、秋を迎える前にして、切ない気持ちに支配されている。

 

自由が欲しいとは、自己決定する機会を増やしたいのだろう。それには、責任が伴う。

書きながら思ったこと。

自己の根底には否定性を抱えている。否定性を肯定して、我々は存在している。故に現状に満足しにくい。否定性を前に身投げしながら生きている。そして、常に欲望が顔を出す。欲望の根底には、他者との関わりが潜在している。自己は、自己であることを引き受け、孤独に耐えなければ、他者と対等な関係性を築けない。孤独に耐え、孤立を防ぐ。この一見矛盾したような構造が自己にはある。

 

最近、また犯罪が多く、最早日常の一風景と化して、何も感じなくなって久しい。いや、感じたところで、自分の生活に追われ、何事もなかったように過ぎていくのだろう。他者からのまなざしの不在の時代で、我々は、改めて他人に関心を持たなければならないと思う。

 

ロシアウクライナ戦争で、これほど国を意識したのは初めてだ。我々日本人は、最早戦えるわけないと思う。そして、誰が日本のために命を投げ出すだろうか、。憲法改正はする他ないと思うが、具体的なことを言える政治家は現れるのだろうか。または、平和憲法を死守できる論理を言う人間が現われるのを待っているのだろうか。それとも、考えたくない事案のために思考停止しているのだろうか。

 

そして、我々は戦わなくてはいけないことを受け入れることはできるのだろうか。この世に勝手に生ませられ、命を賭けて戦うことを強いられる世の中って、なんなんだ。野蛮極まりない。

希望がない、至極辛い世の中だ。だから、私たちは、小さな幸せを大事に、糧に生きてるのだろう。大した変化のない日々の中での、静かな朝のカフェオレ、夜の至福のお風呂など、ささやかな時間を愛しく噛み締めるのだ。

夏が始まる

梅雨が明けたとのことだ。

昨日、数年ぶりに自転車で街へ繰り出したが、そんな体感を感じていた。無印良品にも寄ってきたが、原油高のためか、Tシャツなどの種類がなく、Vネックもなく、肌触りのあまりよくはない、シンプルで安価なものを店頭で販売していた。

 

今日は、学校の地域のお祭りがあり、下準備のお手伝いをしてくる。私は、割と立場的に間に入って、仕事をすることは性に合っている(隙間産業)。

 

農業のアプリで、水田をいずれ譲りたい、という方にメールを入れてみた。

返事の文体が50代?と思えない、親近感のあるくだけたもので、印象はよかったのだが、フェイスブックを拝見したら、クセが強くて、ひいた。

 

まだあれこれ考えずに、目の前のことに取り組んだ方がいいのだが、将来への視点が欲しい気持ちもある。このまま現状維持も大切だが、学校空間に収まる働き方に、息苦しさも感じている。しかし、次のアイデアや希望がない。

 

本格的な夏が始まる。

 

慣れてきた故の考え事

咳は、気管の違和感と喋ると出ますが、楽になりました。しかし、長かった。風邪を引くたびに、こんなしんどい思いをするのは、御免だ(仕事も4日休んだ)。

 

風邪を引いて、おかげでリフレッシュし、職場にも慣れた感覚になりました。

 

そして、まだ3ヵ月しか経ていないのに、来年のことをぼんやり考えています。

 

今の職場は、承認欲求も満たされ、優しい気持ちで取り組めて、ハードな業務ではなく、相方の正職員の方もさっぱりして、変な綾がなく、とても働きやすい。学校なので、みなさん良心的な人です。

 

が、気になる点を挙げると、正職員の方が異動した時、または私が異動して、一人で用務員をすることになった時、さらに、ほっとできる用務員室がない学校の場合、私は孤独感に耐えられるだろうか。一般社会と接点が乏しい、閉鎖された空間で肩身が狭い立場で、私は気を遣い続けていくのか、、。この徒労感。

 

いずれにしても、私の今の生命線は、正職員の方の存在によるところが大きいです。

 

ハローワークは、もう懲り懲りだし、地域おこし協力隊的なものをイメージしてますが、明確な目的がありません。まずは、情報収集からですが、。

 

一日一日を目標に丁寧に歩むのもいいのですが、未来への楽しみやもう少し自由で窮屈ではない精神で働きたい、と感じています。学校はどうしても、気を遣わざるを得ない立場です。用務員室がなければ、逃げ場がない。

 

そんなことを思い始めました。もうすぐ夏がまた始まりますね。