新たな読者の方の記事を読み、インスパイアされたので、今回は哲学っぽいことを。
私も、神を信じたかった。しかし、小説仕立ての物語にうまく自分を騙せなくて、早々去った。一神教の絶対神は、神の命令の下、自己を拘束し、在り方を決める。つまり、自己の根拠を神に委ねている、と私は認識している。
イスラム教では、それまでのより、行為や儀式が多くなったとのこと。恐らく、信者に一定の身体行為に働きかけ、さらに時間を共有させ、信仰心と共同体の団結を強めるためでもあったのではなかろうか。
私は、最終的には、仏教の考え方、とりわけ南直哉さんという僧侶の言葉に強く胸を打つことになった。
それは、「自己は他者に課される」という在り方だ。仏教の背骨は、「無常」、「無我」だ。つまり、それ自体に実体がない、根拠がない、ということ。自己の内部に絶対的なものはないということだ。そうなると、虚無を抱くのは当然の流れだ。そして、その根拠や意味をどうやって創るのか。そこで、「縁起」思想に転換する。自己の根拠を他者を通してつくり出す。しかし、その他者も無常な存在なのだから、それは、「空」ということだ。
つまり、そこで共有されているものは、真理や真実でもなく、物語に過ぎない(実体がないのだから)。
「自己は他者に課される」ということは、自己は他者を引き受けなければ開始しない。その自覚がなければ、自己はない。他者を引き受けるには、その引き受ける自己を引き受けなければならない。
今回はこの辺で。